こんにちは、戦国武将が三度の飯より大好きなマサムネです。
今回ご紹介するのは、軍神とも越後の龍とも称された上杉謙信です。
川中島では武田信玄と大激戦を繰り広げ、隣国なので信玄との逸話も多い謙信ですが、
実は女だったと言われるなど謎が多い人物でもあります。
城めぐりを取り楽しむためにも、有名な戦国武将である上杉謙信は押さえておきたいところです。
では戦国武将の初心者にも分かりやすく、ご紹介していきます。
上杉謙信プロフィール
名前:上杉謙信(長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎、不識庵謙信)
享年:49歳
出身地:越後(新潟県)
特徴:毘沙門天の化身
見ての通り上杉謙信は名前が変わりまくっています。
元服(当時の成人)して長尾景虎になり、関東管領(室町幕府が関東の支配を任命した役職)を継いだ時に上杉政虎になり、親交の深かった将軍の足利義輝より一文字を頂き上杉輝虎となって、その後に出家した際に不識庵謙信となり、元々の上杉+謙信で上杉謙信と呼ばれるようになりました。
歴史モノ作品でも長尾だったり上杉だったりと変わるので、沢山名前が変わったことを覚えておくと混乱せずに済みます。
また戦をしても領地を他人に振りまいたり、奪っても本格的に維持しなかった事もあり、越後(新潟県)から他に移り住むこともありませんでした。
(大半が助けを乞われて戦をしていた)
上杉謙信は毘沙門天の化身なり
上杉謙信は毘沙門天を戦の神として熱狂的に信仰していて、自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。
どのぐらい熱狂的だったかと言うと、家臣にも「我を毘沙門天と思え!」と言ってしまう程には熱狂的でした。
(母親が毘沙門天の夢を見たのが理由とも言われています)
本拠地の春日山城には毘沙門堂を立て毎日祈り、戦についてや家出について、ここに籠って考えたとされています。
また旗には毘の字が書かれていますが、こちらはもちろん毘沙門天の毘です。
かなりの入れ込み具合で他にも、食事制限(鶏肉など)をしたり女性と触れ合うことも自らに禁じました。
上杉謙信は女だった?
上杉謙信には女性説がありますが、本当に女性だったら何かロマンを感じますね!
女性と言われる根拠はいくつかありますので、ここでご紹介します。
1.戦国武将なのに生涯、嫁を貰わずに跡継ぎを作らなかった。(養子を迎えた)
2.民衆の歌で、男もおよばぬ大力無双と唄われていた。
3.上杉謙信の肖像画の中に女性の様な描かれ方をしたものがある。
4.日本に来ていたスペイン人の報告書に、謙信の事が景勝(養子)の叔母と書かれていた。
こうした事から女性だったのでは?と言われています。
戦が強い上杉謙信が、むくんだおっさんだったらテンションだだ下がりだぜ。
ゲームから漫画まで何でもござれのマサムネです。 こちらの記事では、東村アキコ先生がビッグコミックスピリッツで隔週連載中の雪花の虎(ゆきばなのとら)について、戦国武将マニアならではの視点で語っていきたいと思います。 &nb[…]
上杉謙信、敵に塩を送る?
と言って塩を止めることはありませんでした。
上杉謙信の生涯と死因
改名しまくりの、人助けしまくりな上杉謙信。
なぜそういった状況になったのかも踏まえて、上杉謙信の生涯をご紹介します。
上杉謙信(長尾景虎)が越後(新潟県)を統一
謙信の父親である長尾為景(ためかげ)は、主君である上杉房能(ふさよし)を倒して実権を奪います。
その後に越後の統一を目指しますが、房能の兄である上杉顕定(あきさだ)に敗れ佐渡へ追いやられたのです。
ですが長尾為景は体制を立て直して、再び上杉顕定に挑み打ち破りました。
分かりやすい下剋上の完成です。
今度こそ為景は越後の統一を果たそうとしますが、道半ばで病死してしまい、
その後を継いだ上杉謙信が一族念願の越後統一を果たすのでした。
(長男は病弱であり争いを好まなかった為、家督争いで謙信が後を継ぐ)
上杉謙信(長尾景虎)が上杉憲政を助けて、北条氏康との戦いが始まる
関東管領の上杉憲政(のりまさ)は北条氏康との戦に敗れ、上杉謙信のもとに逃亡します。
室町幕府を尊重していた謙信は、憲政の為に北条氏康と戦う事を決意。
上野(群馬県あたり)を北条幻庵から取り返しますが、北条氏康との戦いは次の戦である川中島の戦いまで続いていきます。
上杉謙信(上杉政虎)が村上義清を助けて武田信玄と川中島で戦う
今度は武田信玄の侵攻を受けて、信濃(長野県)から小笠原長時や村上義清たちが逃亡してきます。
彼らの救援依頼を受けて武田信玄との戦を決意、これが有名な川中島の戦いです。
ところが、5回あった川中島の戦いでも1回目と2回目の戦いで、家臣の裏切りがあったり内部紛争もあり、心が疲れた上杉謙信は大好きな毘沙門堂に籠りがちになり、突然の出家と隠居を宣言!
突如として高野山へ向かってしまいます。
これに慌てた周りの人たちが上杉謙信を連れ戻し、みんなで何とか説得しました。
その結果、残念ながら謙信も出家を断念するのでした。
川中島の戦いも3回目を迎えますが、武田信玄と一進一退の攻防を繰り返し決定的な結末には至りません。
その最中、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたことを契機に、北条氏康との戦いも再開します。
順調に北条氏康の本拠地である小田原城まで到達し、包囲する事に成功しますが、ここで北条氏康の同盟国である武田信玄が再び川中島で動き始め、上杉謙信は小田原城の攻略を諦めるのでした。
そんな大忙しな上杉謙信は、上杉憲政(最初に助けた人)より関東管領と上杉を継承して、上杉政虎に改名します。
関東管領になる事で、関東をその管理下に置くことが上杉謙信の目標に追加されました。
ついに川中島の戦いも一番の激戦だった4回目の戦が始まります。
始めに動いたのは武田信玄の軍でした。
霧が立ち込める中、軍師の山本勘助が啄木鳥戦法を提案し部隊を二つに分けて攻め込みます。
これを察知していた上杉謙信は、武田軍が二つに分かれた後に霧に紛れて武田信玄が居る本隊の目の前に先回りし、攻撃を仕掛けたのでした。
部隊を分けたせいで戦力が半減していた武田軍は劣勢となります。
その際、上杉謙信が武田信玄の居る本陣まで特攻し、信玄に3度切りかかり、信玄はこれを軍配で3回受けたという伝説も、この時に起こったと言われています。
この戦いで両軍は大きな被害を出しますが、上杉謙信は武田信玄の重臣である山本勘助をはじめ、信玄の弟である信繁までも打ち取りました。
ですが両軍とも消耗が激しく、4回目の川中島の戦いでも決着はつきません。
この戦に合わせて、ついに北条氏康が反撃に出ます。
始めは上杉軍が劣勢になりますが、上杉謙信が本格的に参戦するとあっという間に盛り返しました。
このころに、親交のあった幕府の足利義輝から輝の一文字を頂き、上杉輝虎と改名します。
続いて川中島の戦いの5回目が始まりますが、この戦いでは両軍のにらみ合いが続いた結果、勝敗が付かずに引き上げています。(以後、武田信玄は駿河の今川氏真を攻め始めます)
結果として上杉謙信は、信濃の一部を手に入れましたが村上義清らの領地を取り返すまでには至りませんでした。
以後は上杉謙信と武田信玄が直接戦うことはありません。
また養子として姉の桃仙院の子である、喜平次顕景(上杉景勝)を迎えたのもこの頃です。
上杉謙信が養子を迎えて、手取川で織田信長軍と戦う
上杉謙信の戦いはまだまだ続きます。
長年戦い続けた北条氏康と同盟を結んだり、氏康の死後に息子の北条氏政(うじまさ)に破棄されたりと北条との戦いは続きますし、一向一揆とも戦う事となりました。
北条氏康と同盟を結んだ際に証として、氏政の弟である北条三郎(上杉景虎)が養子となっています。
またこのころに、不識庵謙信の名を手に入れ上杉謙信となったのです。
その裏では足利幕府が織田信長の影響で衰退し始め、当時の将軍である足利義昭から協力の要請が上杉謙信にありました。
その結果、一向一揆(指導者の本願寺顕如)と和解し、毛利輝元とも協力関係となり、上杉謙信も反信長体制に加わります。
これが有名な信長包囲網です。(幕府の為に、信長を倒そうという集まり)
武田信玄も信長包囲網に加わっていましたが、道半ばで病死します。
この訃報を聞いた上杉謙信は、食べていた食事を吐き出し、信玄と言う英雄が無くなったのは残念なことだと
涙を流したそうです。
これを機に甲斐を攻めてはどうかと言われても、謙信は耳を貸しませんでした。
反信長の立場となった上杉謙信は上洛の為に京を目指しますが、向かう途中にある能登の畠山家で内紛が発生し、織田信長に付くこととなった畠山家と戦になりました。
包囲された畠山家を援護するために織田信長は、柴田勝家を中心に丹羽長秀や滝川一益、羽柴秀吉を送り込みます。
ところが秀吉は勝家と対立して勝手に退却するなど、戦う前から足並みが揃いません。
それでも加賀の手取川を渡るところまでは進軍したのですが、畠山家の七尾城が陥落したとの知らせを聞き、柴田勝家たちは撤退を始めます。
その時を狙って上杉謙信の軍が戦いを挑み、手取川を渡るのに手間取っていた柴田勝家達は敗走したのです。
上杉謙信の死と死因
手取川の戦いの後、上杉謙信は本拠地である春日山城へ戻ります。
雪の降ったある日に厠(トイレね)で倒れている所を発見され、昏睡のあとに死亡したのでした。
死因については諸説ありますが、一番有力なのが脳血管障害です。
厠で死んでいた事(ふんばった?)と、以前から左足が不自由になっていたり、大酒のみだった事が原因として挙げられています。
享年49歳、志半ばでの急死でした。
上杉謙信の城
上杉謙信が本拠地としていたのが、新潟県上越市にあった春日山城です。
現在は昭和に再建された毘沙門堂が立っており、空堀や曲輪などからも城を感じる事が出来ます。
ただ天守はありませんので、城感が欲しい初心者向きではないかもしれません。
また近隣施設に春日山城ものがたり館や市埋蔵文化財センターがありますので、合わせて訪れるのもおススメです。
100名城スタンプは、春日山城ものがたり館にありますが、12月~2月は市埋蔵文化財センターに置かれていますのでご注意ください。
上杉謙信の名言
上杉謙信の名言で一番有名かつ、心に響くものをご紹介します。
運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり、
何時も敵を我が掌中に入れて合戦すべし死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり
運は一定にあらず、時の次第と思うは間違いなり
武士なれば、わが進むべき道はこれほかなしと、自らに運を定めるべし
さすが上杉謙信、言う事がかっこいい!
この名言の意味ですが、一般的な解釈に加えて私なりの表現で現代風にお伝えします。
運は天が決めるものだが、自分を守る事も成功する事も自分次第である。
どんな時でも、難関を自分の考えの及ぶ範囲に留めて行動するのだ。
死に物狂いで行動すれば結果を出し、ただ生きるためにダラダラと行動する奴は死んでいるも同然。
今回は運が悪かったと運のせいにして、結果を受け止めないのは間違っている。
戦う者ならば、自分で決めた選択を信じて運すらも自分で掴め!
と言ったところでしょうか。
マサムネとしては、運任せにせず、自分で考えて行動し、死に物狂いで頑張れ!という上杉謙信からの熱いエールだと解釈します!!
どうしても会社員としての生活が長かったりすると、今の安定を捨てて打って出る事に勇気が要りますよね。
そんな時はマサムネも、ただ安定を維持するために行動するのではなく、自らで考えて行動していく事を忘れない様にしたいです。
(脆くも崩れ去った経験アリ)
大河ドラマとしての上杉謙信
上杉謙信がメインの大河ドラマや、関連作品をご紹介します。
タイトル:天と地と
上杉謙信が主役の大河ドラマです。
謙信役は石坂浩二さん、武田信玄役は高橋幸治さんで、少年期の謙信を演じた中村光輝さんの演技が特に人気でした。
本作でも川中島の戦いは見ごたえがありますので、ぜひご覧ください。
詳しくは別の記事で紹介します。
タイトル:風林火山
山本勘助が主役の大河ドラマですが、この作品で上杉謙信役を演じたのはGacktさんです。
これが中々のはまり役ですので、一度は見て頂ければと。
こちらも詳しくは別の記事で紹介します。
まとめ
上杉謙信はゲームでは能力値が高く設定されたり、漫画でも無敗の武将として描かれていて、お堅く人間味の薄いイメージがあります。(主人公の作品が少ないのもありますが)
ですが実際には人助けの他にも、戦いにつかれて家出してしまったり、一人飲みが大好きだったりと魅力的な側面もある人物です。
他の記事でもこういったエピソードがあれば、歴史アレルギーに効いてくると思いますのでご紹介しますね。
では、また別の記事でお会いしましょう。マサムネでした!