戦国時代が三度の飯より大好きなマサムネです。
学校の授業で歴史を教わって、歴史アレルギーになりつつあるあなたに、分かりやすく伝えていきたいこの記事。
今回ご紹介するのは、多くの名言を残し、戦では怒涛の強さを誇った武田信玄です!
マサムネの中でも、好きな武将ランキングで一二を争う程、魅力的な武田信玄。
あなたも名前ぐらいは耳にしたことがあるかと思います。
もしかしたら、風林火山の人で上杉謙信と戦ったくらいの認識なのではないでしょうか?
この記事ではあなたのその知識を深めて、城めぐりなどに生かせるようにお伝えしていきたいと思います。
武田信玄プロフィール
名前:武田信玄(晴信)
享年:53歳
出身地:甲斐(山梨県)
特徴:風林火山と兜のふわふわ
武田信玄は元服(12-16歳)した時に晴信と名乗っていましたが、のちに出家し、その際にあなたもご存知の信玄と名乗りました。
武田信玄は53歳でなくなりましたが、当時としては長生きなほうで40代で亡くなる武将が多く居ました。
出身は山梨で観光地として今もゆかりの地を訪れることができます。
風林火山がトレードマークな53歳でした。
では武田信玄について、もっと詳しくご紹介します。
武田信玄の生涯と死因
武田信玄はどういった生涯を送ったのか。
これを知っておけば、どんな人物なのか見えてきます。
信玄の誕生と父親追放
武田信虎(のぶとら)の次男として信玄は生まれました。
兄が7歳で亡くなっていた為、信玄は嫡男(跡継ぎ)となったのです。
父である信虎は、信玄の弟である信繁を溺愛し跡継ぎにしようと動いたり、国民にたいして重税をかけ、家臣も不当な扱いを受けたりと不満が重なり、息子である信玄が父信虎を今川義元のもとへ追放しました。(今川には信玄の姉(定恵院)が嫁入りしていた)
信玄が武田家を継ぎ、金貨(甲州金)を作り、川の氾濫を防ぐための治水工事を行い、経済を発展させます。
その後、安定した経済をもとに武田騎馬隊を編成し、騎馬で戦場を駆け巡る戦法を取るようになったのです。
風林火山の旗
信玄は騎馬隊を作るとともに、有名な風林火山の旗を作りました。
この風林火山ですが、実際に旗に書かれていたわけではなく、疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山と記載されています。(はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、しんりゃくすること火の如く、動かざること山の如し)
この記載は孫氏の兵法をもとにしたとされていて、意味は風の様に早く移動し、林の様に敵に見つからないよう静かにし、火の様に激しく攻め込み、敵の作戦に惑わされずに山の様に動かない、といった戦の心がけを記しています。
風林火山という記載は、その後の創作物で書かれて有名になったとされています。
武田四天王
信玄の経済改革と共に有能な人材も集まってきました。
その中で特に優秀とされたのが武田四天王です。
メンバーは、馬場信春(ばば のぶはる)、山県昌景(やまがた まさかげ)、内藤昌豊(ないとう まさとよ)、高坂昌信(こうさか まさのぶ)の四人で、馬場と山県は長男ではなく、内藤は身分の低い家の出で、高坂は百姓とバラエティーに富んでいます。
こういった所にも、今までの考えにとらわれない信玄の適材適所を活かした思いが伝わってきます。
ちなみに有名な山本勘助や真田幸隆(幸村の祖父)は、武田二十四将というメンバーに入っています。
上杉謙信と戦った川中島の戦い
武田信玄は川中島(長野県)で上杉謙信と5回も戦いました。
上杉謙信も戦が上手く、信玄とは実力が拮抗していましており、特に4回目の戦いは大激戦でした。
4回目の戦は濃い霧に戦場が包まれて、目の前に敵がくるまでわからない状況となり、大混戦となりました。
山本勘助は啄木鳥戦法で上杉謙信に挑みましたが、見破られてしまい討ち死にしています。
また有名な武田信玄が軍配で上杉謙信の一撃を受け止めたという伝説は、この4回目の戦だったと言われています。
5回目の戦いは戦を避けて両軍ともにらみ合いとなり、それぞれ撤退していますが、
最終的には両軍の代表を決めて戦わせ、川中島は上杉謙信の領地となったとされています。
徳川家康と戦った三方ヶ原の戦い
徳川家康がう○こを漏らして逃げ帰ったと言われているのが、三方ヶ原の戦いです。
武田信玄は上杉謙信との戦いが落ち着いた後に、正反対に位置する今川の領地に攻め込み、続いて隣の徳川の領地にも攻め入りました。
このまま本拠地である浜松城に攻めてくるかと思いきや、スルーして京都に向かっていきます。
黙っていては武士の名折れとばかりに、武田の軍勢の後を追いかけて攻撃を仕掛けようとしたところ、追ってくるのを察知していた武田軍に向かい打たれてしまったのです。
多くの被害を出してしまった徳川家康は撤退しますが、武田四天王の一人である山県昌景に追い詰められ、逃げ果せたもののあまりの恐ろしさのあまり、う○こを漏らしてしまったと言われています。
敗戦後には自分の行動を反省するために、怒りに満ちた自画像を描かせたとの逸話があり、徳川美術館に絵が展示されています。
武田信玄の死と死因
三方ヶ原の戦いの後に、信玄は持病が悪化し病に倒れ亡くなります。
この死因については、肺結核または癌であったと言われています。現時点ではこの二つが有力です。
(他にも狙撃された傷がもとで亡くなった、寄生虫が原因との説もあり)
亡くなる際に信玄は、遺言として死んだことを敵に悟られないために3年隠す事と、勝頼に後を託して亡くなったとされています。
武田信玄の城
武田信玄が本拠地としていた城は、躑躅ヶ先館と言って一般的なイメージの天守のある城ではありません。
天守のある城は、信玄の死後に主流となったもので、当時は山城と呼ばれる地形と建物を組み合わせた拠点が主流でした。
現在は躑躅ヶ先館の後には、武田神社が立っていますが、城としての痕跡が随所に残っているので、ぜひ城めぐりで立ち寄ってみてください。
武田信玄の名言
武田信玄の残した名言はいくつかあるのですが、ここでは有名な名言をご紹介します。
武田信玄の名言(一生懸命)
一生懸命だと知恵が出る、
中途半端だと愚痴が出る、
いい加減だと言い訳が出る。
この武田信玄が言ったと伝えられる名言ですが、意味は真剣に物事に取り組めば、良いアイデアが浮かぶが、中途半端やいい加減に物事に取り組む人ほど、愚痴や言い訳を言ってしまうという事です。
マサムネもこれは実感していて、全力を出さないで物事に取り組んだ時は、後悔や逃げの気持ちから愚痴や言い訳を言いたくなったことが多々ありました。
愚痴や言い訳を言ったところで、問題が解決することは無いので、この考え方は肝に銘じたい名言です。
※この名言は信玄ではないとする説もあります(実は一所懸命で、一か所の領地を守るとするもの)
武田信玄の名言2(為せば成る)
為せば成る、
為さねば成らぬ成る業を、
成らぬと捨つる人のはかなき
こちらの名言も心に留めておきたい名言です。
意味は、努力すれば出来る、出来ることも努力しなければ出来ない、最初から出来ないと諦めてしまうのが人の弱さだ!といった意味で単純ながらも核心をついた言葉です。
何かをする時に最初から上手く出来る人なんていません。
やってみないからこそ問題点が明確にならずに、その問題点が巨大な壁になってしまうんです。
マサムネも日々この見えない壁と戦って、前に進んでいく努力をしています。
武田信玄の名言3(人は城)
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
武田信玄は人材を適材適所で扱うことに優れていました。
人を正しく扱えば城や石垣、堀の様に強い力となり、人を信頼して扱えば味方となってくれるが、不当な扱いをすると敵となって反発してくるといった意味です。
部下や後輩を含めたチームで、しっかりと結束できれば、大きな力になる事を忘れないようにしたいですね。
なんとなく気に入らない、などの不当な理由で壁を作ったりするのも気をつけましょう。
大河ドラマとしての武田信玄
大河ドラマとして、武田信玄が描かれた作品をご紹介します。
タイトル:武田信玄
中井貴一さんが信玄を演じた作品で、イメージと合わないかな?と思ったのが最初の感想でした。
しかし見れば見るほど中井貴一さんの信玄が素晴らしく、イメージを払拭する演技で、とても見ごたえのある作品になっています。
詳しくは別の記事で紹介予定です。
タイトル:風林火山
こちらの作品は山本勘助が主役なのですが、武田信玄が大きく関わっていますので合わせてご覧頂ければと。
主演は内野聖陽さん、信玄役は市川亀次郎さんです。
こちらも別の記事で紹介予定です。
まとめ
武田信玄は信長包囲網を他の武将と連携し、追い詰める事に成功するなど病死しなければ、その後の展開が全く違ったものになっていたかもしれません。
そういったifを想像する楽しみも歴史にはあるので、あなたの城めぐりの楽しみ方として頂ければ幸いです。
では別の記事でお会いしましょう!マサムネでした。